愚痴愚痴愚っ痴

こんにちは。
音声入力機能を使って書いています(そして加筆・修正もしています)。

理由としてはですね、私はすごく思考を口に出すのが苦手なんですよ。 なんかもう本当に独り言ですら、正直に話せないと言うか。

うまく話せなくてもいいけど、それにしても話すことに苦手意識があるっていうのは 、自分にとっても周囲にとってもあんまりいいことじゃないなって最近気づき始めまして。
こうした独り言でもいいから、自分が考えてることを口に出すっていう練習になればいいなって思ってます



最近よく思うのだけど、私ってやっぱり人と関わるの下手なんじゃない?


今までは『私は人と関わるのが下手なんじゃなくて好きではない人間だ』って思ってたんですよね。
でもそれは違って、本当は私多分めちゃくちゃ他人と関わりたい人間で。
本当にもう、できることなら 全人類を愛したい愛されたい感じなんですけど。なんか、馴染めないんですよね、周囲と。

なんでしょうね。疎外されるまではいかないんですけど、なんか時々、なんて言えばいいんだろうな、周囲と私のチューニングが合ってないんじゃないかって感じる瞬間がありまして。

まあ、会話に齟齬が生じたり、相手とのテンションが違う様に感じるっていうのは全人類が体験したことはあるとは思うんですけれども。
私の場合、なんか今噛み合ってないなって感じることが毎日3回はあるんですよ。定期的に人と関わる環境であれば。

今は一人暮らしで仕事もやめてほぼ引きこもってるんで、店員さんとしか会話しないんですけど。店員さんとの会話ってお互いの目的が一致してるから、ほぼほぼ 齟齬が生じるなんてことはないんですよ。そういう業務上の会話は別に平気なんですよね。


ただ雑談。 雑談ってやつが 本当に苦手なんですよ。目的もなく、お互いがあらかじめ持ってる台本みたいなものもないじゃないですか。
店員さんとの会話って、別に具体的な何かを持ってるわけじゃないけどもちろん、でもお互い今までの社会経験を培ってきた台本みたいなのが無意識下に共有されているので、あまり、こう、怖くないっていうか、苦手ではないんですよ。

雑談って、本当に相手によって数えきれないぐらいのパターンがあるというか、むしろパターンとかないので……。

本当にアドリブですよね。そう、だからもう雑談ってジャズじゃないですか。

楽譜通りじゃなくて相手の演奏してるフレーズに自分がノッていったりとか。逆に自分の音楽に向こうが(勝手に)合わせてくるみたいな。
そういう演奏法ですよね、雑談とは。
それがすごく苦手なんだなっていうふうに気付いたんですよ。
あと今ジャズって言葉軽率に使っちゃいましたけど ジャズの定義これであってるのかな。

アドリブで何かするっていうのが本当に嫌で。あらかじめ決められたことがその予定通りに行われるっていう事にすごく安心感を覚えます。
できることなら常にそういう状態で生きていたいという人間なんですよね。
無理なんですけど。この世で確実なのはいつか死ぬということだけなので。

いや、もちろん完全な予定調和だけで人生が終わるのは嫌ですけど。
なんか、やっぱり、なんだろな。偶然目に入ったなんか、なんだろうな、偶然目に入った花にセミの抜け殻が付いてたとか。そういうサプライズがあると生きてるなって感じがする。
だから、全てが全てこう予測したいわけではないんですけど。



何の話か分からなくなっちゃいました。
こういう話の流れからも、私がいかに雑談が苦手かということがよく分かりますよね。

とっちらかっちゃうんですよ、話が。
そう、独り言でさえとっちらかっちゃうんですよ。
これでさらに何か他人との会話となると、本当に考えることが多くて、余計にとっちらかります。

人との会話って考えること多くないですか。
相手の反応とかすごい気になっちゃうし。
それに、自分がどれぐらい話していいのか、とか、自分の話してるペース、喋る速度、使ってる語彙が適切なのかがわからなくなるんです、よく。

そういう、いろんなことを考えてるうちに、自分の話してる内容や思考の道筋みたいなのがどんどんぐちゃぐちゃになっちゃって。
自分でも話してるうちに何を話してるんだろうってよくなっちゃうんですよ。


みんなもそうなのかな。
他人との会話って 疲れませんか?
考えることや処理しなきゃいけない情報が多いですよね。それがすごく、私には負担で。
他人と話すと本当にどっと疲れますね。
嫌いじゃないんですけど人と話すことが。
でもやっぱり、疲れるなって本当に。

好きこそ物の上手なれて 言うけれども、なんかもう、全然上手にはなれない。
脳の処理能力的な話なのかな。なんかこう上手下手とかじゃなくて。もうできないよって、可能不可能の話なのかな



愚痴みたいな話になっちゃいましたね。

もっとこう、愚痴じゃなくて、もっと普段考えてる私の思考とか信念とか、なんか、なんだ。思考の癖というか、そういうのを整理したいなって思って記録を始めたのに。
ただの愚痴になってしまったこういう私の個人の愚痴なんて何の価値もないのに。

よく幸福とは何かとか、科学至上主義的なものへのなんとなくの反感とか、考えてしまうのだが、そういう話を全くできずに愚痴になってしまいました。
意見を言葉に出して表明するって難しいですね。その覚悟がなくて「うまく話せないですぷー」みたいなメンヘラの愚痴になっちゃった



一度愚痴になっちゃったんで、なるべく愚痴を吐き出しちゃおうかな。

一番の悩みって何かっていうと『何もないな』っていう気持ちが消えないんですよ。
特技とか趣味とか そういうのももちろんないんですけど、 一番なくて悲しいなって思うのが、人間関係を構築できなかった人生だなって感じることです。
本当に家族とも全然話せないし。まあ恋人はいないし、友達は……、友達の定義がよく分からないんでいるともいないとも言えないんですけど何だろうね。

本当に全然人と会わない生活だなって思います。自分の選んだ道が。
人と出かけたりとか、旅行行ったりとか、ましてや一緒に暮らすとか。
今までの人生から考えると縁遠すぎて、映画みたいに見えるんですよね。他の人の生活が全部。

なんだろう、この表現じゃないな。映画みたいだと思うのは本当なんだけど、この表現だと私の感じている通りに伝わらない気がする。

なんだろうな。私は他の人がどう感じて生活しているのかは、もちろんよくわからないんですけど、でも、なんかこう、他の人が映画を見るような感覚を、私の場合は他の人の生活を垣間見ただけで感じてしまう気がしています。

こう、なんだろうな……。
共有できる、あるいは共感できるような舞台設定とか人物設定がある上で、創作物が物語だなって感じるのって、展開とか ストーリーが自分の身には起こらないだろうなっていうのがあると思うんですよ。
どんなにリアルな日本を舞台にしてても、こんなドラマチックなことは起こらないみたいな風になるじゃないですか。
なんというか……。そうか、ドラマチックか。ドラマチックって言葉いいな。
だから、なんだろうな、 私は多分、ドラマチックに感じることが多いんだろうなって今気づきました。

人と話すとか、どっか行くとか、交際するとか。普通の人は多分(普通って言葉あまり使いたくないけど)、たいていの人は日常的に体験することなんですよね。
そもそも、体験って言葉を使うまでもなく、ご飯を食べるみたいな行為と同じく、他人と交流する事って当たり前みたいなことなんだなっていうふうに社会では扱われるように、私にはは感じる。

でも、私にとっては、誰かと誰かがお互いに会いたい、会ってもいいなーって感じること自体がなんかもう凄いって思っちゃうんですよね。もうそれだけでいいなーって思っちゃう。


先程、私は人と関わりたいみたいな事言ったんですけど、その関わりたい具体的な人間って全然いないんですよ他人を他人と言うカテゴリーとしてしか見てないから。
具体的な誰かっていうのが私の中になくて。
それがすごく寂しいなって、最近思うようになりました。私は私しか感じ取れないのかっていう。


なんというか、私の中の世界はすごく充実してるなって自分では思うんですけど。
でも、こう、外の世界においては空っぽで、真っ白な感じなんですよね。なんだろう。地に足つかずに自分だけがふわふわと浮いているような。そんな感覚を外に出るたびに覚えるような気がします。


もっとこう、具体的な何かを愛したいなって。 それだけが今の私には救いになるんじゃないかなって思います。それができればもうちょっと生きやすいのかなって。



ところで、


悩むとさ、今はインターネットっていうものがあるからさ、同じ悩みを持ってる人いるのかなって調べるじゃないですか。
そして、まあ、いるわけよそれっぽいのは。 ブログだったのだけど、タイトルが「自分には何もない」みたいなじだったのね。
共感できるかもって思ってちょっと見てみたんですけど、最初はすごくわかったんですよ。本当空っぽで、今までの人生何もなかったな、みたいな。私は何も持ってない、みたいなことが書かれてたんですけど、
ブログの後半に「今日も旦那と行った外出先で~」みたいなことが書かれ始めて「えっ?!」て言っちゃった。


旦那いるんかいっていう。

お前何もなくないやんけってなるじゃないですか。どんでん返しだよ。
夫婦仲がどうとかは知らないですけど、いやでも、少なくともお前法律上夫だと認められる人間がいるやんって。

びっくりしました。
もちろん、これは結婚してやがってっていう嫉妬もありますけど、 それと同時に、結婚してても"何もない"って感じるんだ、という、私の希望に対する絶望みたいな例を見てしまったことへの驚きもある。


結局やっぱり心の持ちようなのかな。
心と言うかの脳の処理能力なのかなもしくは。世の中に具体性を見いだせないっていうが、脳の問題だとしたら私に必要なのは病院です。
あと適切な支援。 助けてくれ~。




ここまでで4460文字喋ってました。原稿用紙12枚分ですねだいたい。さすがに疲れた。疲れた。でも、この話したことによる口の疲労っていいですね。頑張ったなって思うから。寝過ぎて背中が痛くなった時の痛みは落ち込む。


あと、音声入力ってインタビュー記事みたいになりますね。人間、一方的に喋ると同じような話し方になるのかな。
「なんかもう」と「なんか」と「なんだろう」という言葉の出現率よ。ふわっとしすぎ。

しかし、このふわっと加減こそ、まさしく言語化の"実践"の表れだと感じる。断言できることこそ、空論である。"真理"ではなく"真実"(本当のこと)を言いたいときは、必ず言い淀みが生じる。理から外れているのだから。


最後まで読んでくださってありがとうございました。もうすぐ梅雨ですね。

異質感

こんにちは。

暑かったり寒かったり、まだまだ気温が安定しない日々ですね。
春のはじまりは、なんか夏や秋の雰囲気も感じませんか?お得ですよね。

 

 

今日は休みだったので、柏に行ってきました。
柏駅周辺って吉祥寺みたいですね。ランクを下げた吉祥寺。パチンコ屋の主張が強い吉祥寺。
ちなみに津田沼はレベルを下げた立川って感じです。
「人混み苦手だけど田舎は嫌い」という人は千葉にの北西部に住むのはいかがでしょうか。

 

柏のマルイに行ってきたのですが、あそこは地下にヴィレッジヴァンガードイエローサブマリンが隣接しているんですよね。あとゲーセンもある。
サブカルチャーが地下に密集しています。雰囲気が中野ブロードウェイっぽい。
駅前は吉祥寺で、屋内は中野。おもしれー街、柏。

 

 

 

学生時代はヴィレヴァンによく行っていた私も、今はホビーショップにしか行かなくなってしまった。いつの間にやらヴィレヴァンの雰囲気があまり好きではなくなった。
ヴィレヴァン自体がどうこうより、ヴィレヴァンにいる客層が「なんか私と違うな」と感じて、店内にいるとなんかソワソワする。

 

なんというか、深夜のドンキにいるときと同じ気持ち。店のことは嫌いじゃないけど、そこに存在する客達が自分と違う。だからといって、客達のことが嫌いなわけでもない。ただ、自分が異質に感じられることに居心地の悪さを覚えるだけだ。

 

 

生きれば生きるほど、自分が異質に感じられる場所が増えていく気がする。

 

子どもの頃は森羅万象が自分の一部だという感覚があったような気がするけど、今では「自分という存在はどこまでいっても孤独なままだ」という感覚が強い。
孤独であることが悪いではない、という確信も年を重ねるごとに強くなっているから、感覚の変化に関して悲観しているわけではないけれども。

 

みんなはどうなんだろう。自分だけが周りから浮いているような気持ちを抱いていたりするんだろうか。それに対してどう思うのだろうか。
そういえば、“みんな”という言葉を使うときに、私はその中に自分自身を含んでいないな。
集合体の中に自分が含まれるようなイメージがない。でもこれ、他の人もそうか?

 

 

いつからこうなったんだっけ。
“世界“という領域と自分は別の存在だと思いはじめたきっかけはなんだったんだ。

 

全く思い出せない。過去のことを何も覚えていられないな。
そういえば、周りの人間が世間話として思い出話とかエピソードを話せることに驚いたことがある。私は3日間ほど時間をもらえないと、過去の話を他人にわかるように話せない。
過去の話をしなければいけないとき、思い出せないときは他人の話していた過去の話を流用していた気がする。それすらも覚えていない。もちろん、経歴詐称等はしてないです。

 

過去の事実は覚えていても、その時の感情とか感じたことを思い出せない。
だからすごく、箇条書きのような話し方になってしまう。
でも世間話において、重要になるのは事実部分ではなくて、心の動きの方だから。事実だけ話しても会話は盛り上がらない。まあ、別に盛り上げる義務はないのだが。
なので、自分と似たような経験をした他人の話し方を真似することが結構ある。私は他人のトレパクで生きています。周囲の人間にはどう映っているんだろう。バレてるのかな。

 

 

 

柏に行ってきたという話から、こんな話題になってしまった。
今回はもっと明るい日記になると思ったのだが。
思いつきで書いているから話が自分でも予想外の方向へいく。
ジャズと同じ。

 

自分が異質に感じられる場所が増えたといったが、サーティワンとスタバもそう。甘いものがどんどん食べられなくなっていく。クレープ屋も最近は行きづらい。
ミスドだけだ。ミスドだけが私の最終防衛ライン。残りの人生はハニーチュロだけを食べつづける。

 

あ〜〜〜。ポッピングシャワー食べてバナナのフラペチーノ飲みた〜〜〜〜〜。

 

 

みなさんもご自愛して、ハニーチュロをいっぱい食べましょう。私と運命を共にしてくれ。
もしくはチョコバナナフラペ飲んだら感想教えてくださいね。
美味しそうだったら頑張って買いに行きます。

 

 

無為と消費、そこからの脱却願望

こんにちは。

 

気づいたら前回の日記から2ヶ月経っていました。
なぜなら、この2ヶ月間、ただ生きていただけだからです。
いや、私以外の全生物もそうか。

 

桜がいつの間にか咲き、いつの間にか散りはじめましたね。
私はこの春からはじめて正社員になりました。そして引っ越しました。
引っ越し先はウーバーイーツの配達員がすぐ見つかるので素敵だなって思っています。

 

ところで、新生活が始まってから改めて気づいたのですが、人生ってただ生きているだけで生きていけるんですね。朝起きて、お金を稼いで、ご飯たべて、眠る。このタスクさえこなしていれば、そこに喜びとか楽しさとか悲しみなどがなくても生きていける。
生きていること自体は楽しみでも悲しみでもないわけです。ただ、生活があるだけ。

 

それが救いになるときもあれば、やっぱり退屈に感じることも多いわけで。
職場と家を往復するだけの毎日にうっすらとした翳りを感じるようになってきました。この翳りが強まるとやばい気がします。私にはわかる。
飲酒によって浄化しようとも、この翳りは消せない。飲酒によって退屈を無為をやり過ごそうとする行為自体、ただの“生活”的行為なので。結局翳りを生み出してしまう。

酔生夢死から逃れたいがために、人間はなにか熱中できるものを探したりモノやコンテンツを消費したりしていると、私は思っています。
いや、他人の考えていることは分からんけど、少なくとも私はそう。無為への虚しさから逃れるためになにかを消費し続けている。

 

 

でも、これって限界がある。動画や映画も本も音楽も食べ物もお酒も、死ぬまで退屈しないために消費するには限界がある。
供給の問題ではなく、消費をするサイクル自体に自分自身が虚しさを感じはじめてしまう。
虚しさから逃れるための行為のはずなのに、余計に虚しさを生み出すことになる。

 

これを書きながら思い出したけど、webライターのダ・ヴィンチ・恐山さんが似たような内容をツイートしていたような……。

 

 

ありました。これです。
(他人の引用をするのは「相手の意図していない理解をしていないか」という不安がすごい。この不安を表明することで解釈違いを少しでも許されたい。)

 

 

結局、退屈から逃れ続けるためには、自分でなにかを生み出す人間にならなくてはいけない。
生み出すといっても、なにかしらの作品とかそんな大層なものでなくていい。
演奏したり、落書きレベルの絵を描いたり、散歩してなにかに気づいたり考えたり、そんな自分のための小さな行為でいい。そういうことで少しでも自分の心が動けばいい。

 

「そんなことならすぐにやれるだろ!このおたんこなすヤロウ!!」と思われるかもしれないですが、私にはなかなか難しい。楽器を弾いたり絵を描いた散歩したりは、実際にやっています。でも、なにか違う。ちゃんと楽しめていない。
退屈にならないように、自分の行動や体力をただ消費しているだけな気がする。

 

前述した通り、人生や行為自体は楽しみでも悲しみでもない。
そういった所感はあとから付随するものだ。
しかし、私は最初から心の動きを求めて行動している。

もちろん、なにかを求めて行動することも意味のあることだとは思うのだけれど、でも、それってやっぱりただの消費だ。ただ、コンテンツの元が自分になっただけで。

 

生み出したい。
楽しむためでなく、行為をするために行為したい。

 

そういう意味では、労働するって大事だな。
あれこそ、行為のための行為だ。無職時代は一日中虚しさMAXだったもの。

 

 

ここまで生み出すことに希望をもったことを書いたけれども、いざ生み出すような人間になったらまた別の虚しさが生まれるのかな。新生活が始まってから“ただ生活があるだけ”という現実に気付いたように、生み出すことにもまた、別の現実があるのかもしれない。

 

今回の日記は“生み出す”とか“虚しさから逃れる”とか“心が動く”とか、私があまり好きではない言葉ばかり使ってしまったな。なんか苦手だ、こういう表現。
しかし、好きではない言葉を使わないと自分の考えを表せない。語彙力不足だ。
自分をうまく表せないときに、もっと勉強しておけばと後悔する。

 

 

最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
年度も変わり、不安になるようなニュースもつづく日々ですが、どうぞご自愛ください。

 

 

飲酒の功

 

やまだです。はじめまして。

このブログは、個人的で社会的意義も大義もない四方山話しか書けません。
自分の意見を言ったり、ましてや世間を啓蒙するなんて度胸がないからです。
でも、自己承認欲求はあります。
やさしくしてください。お願いします!

 

さっそく、今日の日記をば。

昨日は久しぶりに飲酒をしました。
やっぱりお酒を飲んだらだめですね。判断力も鈍るし、睡眠の質も下がるし。

今だってほら、今日の日記だっつってんのにいきなり昨日の話してるし。
言葉のチョイスを間違えた。まあいいか。

 

やはり飲酒すると次の日がしんどい。
つらくてもお酒は飲んじゃだめ。
というか、悲しみを紛らわすために飲むものじゃないよ。
楽しんで飲むものだから。そもそも用途が間違っている。
悲しみは耐え忍ぶものです。受け入れろ、苦境を。

お酒を飲む度にこの反省をしている気がするな。
人間は忘れる生き物です。

 


そもそも、何がそんなに悲しいんだっけか。
それすらもよくわかっていない。
具体的な原因はないのに、ただ漠然と悲しい。虚無感。
毎晩襲ってくる「明日がくるのがこわい」という気持ち。

こうした不安、虚無が気づかないうちに蓄積していって、自己処理できないほどに大きくなってしまうんだろうな。そしてお酒を飲んでしまう。
つまり、飲酒という行為は浄化なのだ。
実際、お清めのためにお酒が使われることもあるし。

 

ということは、飲酒を後悔する必要は全くない……??
この世の真理に気づいてしまった。
生きている限り避けられない虚無感をやり過ごすために必要なプロセスなのだ。飲酒は。

そうすると、お酒を飲まない・飲めない人ってどうしているんだ?代替行為があるんだろうか。
学生時代とかってどう過ごしていたっけ。苦しみにのたうち回っていたんだっけ。
本当にそうだったような気もするし。

 

とにもかくにも、飲酒って最高!!!!!!

 

 

さっきまでと言ってること全然違うな。情緒が不安定だ。
行き当たりばったりでブログを書いているから。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。
ご自愛ください。適度な飲酒を心がけましょう。