無為と消費、そこからの脱却願望
こんにちは。
気づいたら前回の日記から2ヶ月経っていました。
なぜなら、この2ヶ月間、ただ生きていただけだからです。
いや、私以外の全生物もそうか。
桜がいつの間にか咲き、いつの間にか散りはじめましたね。
私はこの春からはじめて正社員になりました。そして引っ越しました。
引っ越し先はウーバーイーツの配達員がすぐ見つかるので素敵だなって思っています。
ところで、新生活が始まってから改めて気づいたのですが、人生ってただ生きているだけで生きていけるんですね。朝起きて、お金を稼いで、ご飯たべて、眠る。このタスクさえこなしていれば、そこに喜びとか楽しさとか悲しみなどがなくても生きていける。
生きていること自体は楽しみでも悲しみでもないわけです。ただ、生活があるだけ。
それが救いになるときもあれば、やっぱり退屈に感じることも多いわけで。
職場と家を往復するだけの毎日にうっすらとした翳りを感じるようになってきました。この翳りが強まるとやばい気がします。私にはわかる。
飲酒によって浄化しようとも、この翳りは消せない。飲酒によって退屈を無為をやり過ごそうとする行為自体、ただの“生活”的行為なので。結局翳りを生み出してしまう。
酔生夢死から逃れたいがために、人間はなにか熱中できるものを探したりモノやコンテンツを消費したりしていると、私は思っています。
いや、他人の考えていることは分からんけど、少なくとも私はそう。無為への虚しさから逃れるためになにかを消費し続けている。
でも、これって限界がある。動画や映画も本も音楽も食べ物もお酒も、死ぬまで退屈しないために消費するには限界がある。
供給の問題ではなく、消費をするサイクル自体に自分自身が虚しさを感じはじめてしまう。
虚しさから逃れるための行為のはずなのに、余計に虚しさを生み出すことになる。
これを書きながら思い出したけど、webライターのダ・ヴィンチ・恐山さんが似たような内容をツイートしていたような……。
重要なことがあるとすれば、(物理的・精神的に)飢えてはそれを満たすサイクルの中に虚無を見出してしまわないよう、各々のしかたで工夫することであって、なにかに熱中するというのは虚無を癒やす方法のひとつに過ぎない。それ以外の方法が向いている人も無数にいる。
— ダ・ダ・恐山 (@d_d_osorezan) March 23, 2021
ありました。これです。
(他人の引用をするのは「相手の意図していない理解をしていないか」という不安がすごい。この不安を表明することで解釈違いを少しでも許されたい。)
結局、退屈から逃れ続けるためには、自分でなにかを生み出す人間にならなくてはいけない。
生み出すといっても、なにかしらの作品とかそんな大層なものでなくていい。
演奏したり、落書きレベルの絵を描いたり、散歩してなにかに気づいたり考えたり、そんな自分のための小さな行為でいい。そういうことで少しでも自分の心が動けばいい。
「そんなことならすぐにやれるだろ!このおたんこなすヤロウ!!」と思われるかもしれないですが、私にはなかなか難しい。楽器を弾いたり絵を描いた散歩したりは、実際にやっています。でも、なにか違う。ちゃんと楽しめていない。
退屈にならないように、自分の行動や体力をただ消費しているだけな気がする。
前述した通り、人生や行為自体は楽しみでも悲しみでもない。
そういった所感はあとから付随するものだ。
しかし、私は最初から心の動きを求めて行動している。
もちろん、なにかを求めて行動することも意味のあることだとは思うのだけれど、でも、それってやっぱりただの消費だ。ただ、コンテンツの元が自分になっただけで。
生み出したい。
楽しむためでなく、行為をするために行為したい。
そういう意味では、労働するって大事だな。
あれこそ、行為のための行為だ。無職時代は一日中虚しさMAXだったもの。
ここまで生み出すことに希望をもったことを書いたけれども、いざ生み出すような人間になったらまた別の虚しさが生まれるのかな。新生活が始まってから“ただ生活があるだけ”という現実に気付いたように、生み出すことにもまた、別の現実があるのかもしれない。
今回の日記は“生み出す”とか“虚しさから逃れる”とか“心が動く”とか、私があまり好きではない言葉ばかり使ってしまったな。なんか苦手だ、こういう表現。
しかし、好きではない言葉を使わないと自分の考えを表せない。語彙力不足だ。
自分をうまく表せないときに、もっと勉強しておけばと後悔する。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
年度も変わり、不安になるようなニュースもつづく日々ですが、どうぞご自愛ください。